2009年2月22日日曜日

イチゴ狩り

大崎町の安田観光農園に行く。イチゴ狩りを楽しんだ。棚の上から伸びているイチゴなので、子どもでも簡単に取れる
花もきれいである。

ビニールハウスなので、天候に関係なく楽しめる。


品種は「とよのか」。100g100円。写真で約2500g2500円であった。
http://www.yasudanouen.com/(安田農園)


大隅古墳ツアー参加

昨日2/21(土)大隅古墳巡りツアーに参加する。参加者32名。天気に恵まれ、充実したツアーとなった。ツアー内容を報告する。
講師の橋本氏。岡崎古墳や神領古墳を発掘してきた。大隅古墳のスペシャリストである。

まず串良町の大塚山公園へ。高台から周囲の地形を眺める。


志布志市有明町、あおぞら一丁目の「笑和食堂(しょうわしょくどう)」にて食事



野菜料理中心のバイキング。隣のキッチンで作りたてのものがどんどん追加で出てくる。どの料理も美味である。この日はツアー料金に含まれていたため、支払わなかったが、料金は大人1000円とのこと(小学生700円。幼児3才以上400円)安い。この味でこの料金なら、もう○○○○太郎に行く必要無しである。(実は今日も家族でやってきた)




神領(じんりょう)古墳群(大崎町)

講師の橋本氏が2006年~2008年まで発掘調査した神領古墳10号墓(前方後円墳)全長54m
30個以上の須恵器(すえき・灰色をした土器)・土師器(はじき・茶色をした土器)が発掘された。この数は、これまで1度の調査で発掘された数としては、2位の多さであるらしい。それも、須恵器は、
4世紀末、朝鮮から伝わった初期須恵器が出土し、質量ともに意義のある発掘だったとのことである。

2006年に発掘された「武人埴輪」非常にリアルな顔をしている。

後円部、2007年ここから、被葬者の石棺と鉄製矢尻等がが発見される。


10号墓遠景。森の中に墳墓がある。


バスを降りて歩いていると、真っ直ぐな道を発見。旧志布志線の線路跡である。




横瀬古墳(大崎町)

前方後円墳の形をそのまま残している横瀬古墳(大崎町)全長142m、古墳丘の周囲には、幅12~23m、深さ1.5mの周溝(しゅうこう・堀)があったことも分かっている。周溝部分からは大量の埴輪が出土しており、この埴輪は、この近くの登り窯で焼かれたことも分かっている。ちなみに埴輪といえば、「はに丸」などのモデルになったいわゆる「埴輪顔」を持つ人間型埴輪を思い浮かべがちであるが、あれは、関東タイプ埴輪であり、九州で使われた埴輪は、ほとんどが壺型埴輪である。

地上から後円部を見上げたところ。 高さ10m
後円部から前方部を見た図。


前方部から後円部を見たところ。前方部と後円部の高さの差は約1mであり、新しいタイプの古墳といえる。完成は420年頃。神領・岡崎18号墓と同時代の墳墓である。九州第5位の規模であり、完成当時のものとしては、西日本1位の大きさである。このことからして、被葬者は、単に大隅の支配者にとどまらず、九州全域に名をとどろかせたほとどの権力者だった可能性もある。



近くの方がこのツアーのことを聞き、草刈りをしてくださったとのこと。ありがたい。周りは田園風景がひろがっており、古墳が完成した当時の風景を残しているという意味でも貴重な古墳である。





岡崎古墳群(串良町)

岡崎古墳群は、20基発見されている。もともとは50基近くあったらしいが、畑になったものもたくさんあるらしい。写真は20号墳(前方後円墳)の後円部。近くにある18号墳では、地下式横穴墓2基が発掘されている。その古墳は420年くらいの古墳で、横瀬古墳・神領古墳と同時代のものであったと考えられている。横瀬古墳の被葬者がNO.1の権力者、神領がNO2.そして岡崎がNO3であり、地域間の横のつながりもあったと考えられている。また、15号墳(前方後円墳)からは、ひすいのまが玉も発見されている。当時のひすいは、富山県の糸魚川流域でしか産出されていない。つまり、富山県産のものが大隅まで運ばれていたのである。

唐仁古墳群(東串良町)②

看板だけで申し訳ないが、唐仁古墳群の中で前方後円墳は3基ある。そのなかの1つ薬師堂塚
3つめの前方後円墳「役所塚古墳」この場所の近くに役所があったのでこの名が付いたらしい。
全長57m程度。前方部と後円部の高さの差があまりなく、唐人大塚よりは新しいと思われるが、
完成時期は特定できないらしい。



唐仁古墳群(東串良町)①

唐仁古墳群(東串良町)約130基の古墳がある。その中で最大の前方後円墳、唐仁大塚古墳(全長140m 後円部の直径65m 九州第3位の大きさ)。古墳全体が大塚神社となっている。鳥居の向かって右の柱奥から前方部が始まっている。(参道右側が前方部)前方部は高さ4m、後円部は高さ10.7mで前方部と後円部の高さが違うのは、古いタイプの墳墓である。370年にできたと思われる。

後円部を側面から見たもの。木々に覆われていて形は見えない

後円部の周りを巡っている周溝(しゅうこう・堀のような部分)当時のままのこっている。


後円部には、神社の本堂がある。なんとその床下は、被葬者を葬った石棺のふた5枚のうち4枚がそのまま残っている。この石棺は花崗岩でできている。鹿児島の石材としては、凝灰岩が代表的なものであるが、花崗岩は凝灰岩より非常に重い。この巨大で重量のある花崗岩製の石棺を加工し、(ちなみに加工したのは延岡だったらしい)それを地上10mまで運び上げ、埋葬した(古墳自体もまったくの人工物である。)当時の技術や労働集約力には驚かされる。それだけ巨大な権力が存在していたのである。



暗くて分かり難いが、主たる被葬者の関係者(家族か?)を葬った石棺が見える。




塚崎古墳群(肝付町)

最後に訪れた塚崎古墳群。(肝付町)地図にある「39号墳」は、日本最南端の前方後円墳である。
「塚崎の大楠」鹿児島で3番目の大きさ。天然記念物である。弱ってきたため樹医が手当をしている。
なんと、古墳(1号墳)の上に生えている。樹齢1200年とも言われている。「蒲生の大楠より樹丈が高い」という声もあった。

日本最南端39号墳を後円部から見たところ。






39号墳を側面から見たところ。ちょっと見にくいが、稜線を見ると、後円部(向かって左)に比べて前方部(向かって右)が低くなっている。これは、古いタイプ(4世紀後半(390年頃)の前方後円墳である。
そもそも、古墳は、被葬者を盛り上げた土の中に埋葬することから始まった。つまり、円墳が基本である。その後、円墳の前面に通路を設け、葬儀に関わる儀式を行った。その前面通路が前方部の始まりである。時代が進むにつれ、既成の墳墓との差別化を図るために、前方部を高くjする墳墓が現れ始めた。それが前方後円墳という形として完成したのである。




2009年2月19日木曜日

今日の夕食(ぶりの照り焼き)

以前、叔母からもらったぶりの切り身を冷凍庫の中から発見。子ども達が大好物なので、お好み焼きの予定を変更して、ぶりの照り焼きを作ることにする。なにか、いい調理法がないか、さがしたところ
やっぱりみつけた「ためしてガッテン」
 ①ぶりの身に小麦粉をまぶす。(ぶりは1切れ80~100g)
 ②フライパンを強火で1分間加熱する。
 ③よけいな小麦粉を払い落としたぶりの片面を強火で1分間焼く。
 ④裏面を中火で1分半焼く。
 ⑤たれ(醤油、酒、みりんそれぞれ大さじ2)を弱火で30秒絡める。
 ⑥火を止め、3分間置いておく。できあがり。
本当にこれで火が通るのか心配だったが、見事に仕上がっていた。ポイントはなんと言っても小麦粉をまぶすこと、身のぱさつきを抑えるために火を通す時間を短くした分、たれのしみこみの不十分さが心配される。その解決策としての小麦粉である。この小麦粉はたれの絡みをよくするだけでなく、ぶりの脂肪分が外に出てしまうことも防ぐという、一石二鳥の効果があるとのこと。食した子ども達、「身が柔らかくておいしい」またまたガッテンさまさまである。

英語トレーニング



最近英語の伸び悩みを感じていた。基礎的な体力がないのである。トレーニングを開始する。
方法は、「絶対音読法」数年前、ベストセラーになった「英語絶対音読」のトレーニング法である。
①まとまった文章の音声を聞く。
②音声に合わせて音読する。(1回)
③文章の意味を確かめる。
④テキストを見ながら音読する。(3回)
⑤音読しながらテキストを写す。(1文3回ずつ)写真上
⑥テキストを暗唱する。
⑦もう一度音声を聞く。
という手順。語学の練習は、音読・視写・暗唱である。
このトレーニングを行うためには、
まとまった英文とその音声が必要となる。私は、NHKラジオのビジネス英語を使っている。現代のアメリカ英語の使い回しを練習できるだけでなく、現代のアメリカ事情も知ることが出来、内容的にもおもしろい。。写真下は、そのテキストで、富士山ドットコムというサイトから購入した電子テキストである。1回のトレーニングに1時間半くらいかかるのでちょっと大変だが、いつまで続くかがんばってみよう。目標は3ヶ月である。

2009年2月18日水曜日

料理モード突入

妻の実家奄美大島の母から、特大のキャベツを初め、ブロッコリー、ほうれん草等大量の野菜が送られてきた。見てください、この大きさ。このサイズが3個も送られてきたのです。さて、処理を考えなくては
まずは、餃子。90枚分作り冷凍する。本日の夕食になった。

定番のロールキャベツ。子ども達も大好きである。冷凍しておいて、あさっての夕食に出す予定。


餃子の具があまってしまった。皮をさらに購入するか。別の使い方を考えるか。とりあえず冷蔵庫に入れておこう。
 明日は、次女のリクエストで「お好み焼き」を作ることにした。ここまでで1個半使う。さてあとはどうしようか。



三女も手伝ってくれた。ひだがないのが三女作の餃子




2009年2月15日日曜日

唐芋ロンド

先月に続き、2回目の参加。今回のテーマは、「芋焼酎誕生秘話」。鹿児島大学で焼酎学の講座を鮫島教授。焼酎の歴史を中心とした講演。
 ①サツマイモは、酒に適しない作物である。
  ・収穫の季節性
  ・周年供給が困難
 つまり、作れる季節が限られているということである。
  ・でん粉含量が低い(米75%、サツマイモ25%)
  ・蒸すと甘くなる(雑菌がつきやすい→腐りやすい)
  ・もろみの粘性が高い(サツマイモが多くの繊維質を含んでいる)
酒を造るには、原料に麹を入れることで、でん粉を分解し、分解されたでん粉を酵母を使って、アルコール発酵させる必要がある。この発酵の温度・期間が酒によって違う。清酒・ビールなどは、低温・長期間発酵させるし、反対にウィスキーは、高温・短期間(2~3日)発酵させる。このことで、もろみの腐敗を防ぐのである。しかし、なんと、原料が腐りやすいにもかかわらず、焼酎は、「高温・長期間」発酵で作られる。一番腐りやすい製法のような気がするが、その腐敗を防ぐのが、焼酎に使われる麹ある。
もともと泡盛に使われていた「黒麹」を使うことで、この腐敗の問題を克服した。なぜなら、この黒麹は、
一次もろみ生成過程で、クエン酸を生成するのである。クエン酸は、梅干しやレモンの酸味の主原料であり、強い殺菌効果を示す。この酸を使うことで腐敗を防いでいる。それに、焼酎用の「耐熱性・耐酸性」を持つ、焼酎酵母を用いることで、発酵させることで「高温・長期発酵」を可能にした。この製造法が確立したのが明治41年である。その後、大正7年、河内源一郎氏が、黒麹の中に白麹を発見。培養に成功した。大正8年には、それまで使われていた黄麹を使った焼酎製造は姿を消したという。
 ②黒麹と白麹は、基本的に色以外の違いはない。
 全く同じ条件だと、黒麹を使った焼酎の方がサツマイモ独特の臭いが強くなるらしいが、もともと白麹が黒麹から生まれたものなので、それほどの違いはないらしい。つい最近までは、白麹を使っていることが多かったのは、製造過程で、黒麹から発する黒の胞子が作業に支障を来したためである。このごろ「黒麹」仕込みを売りにした焼酎のコマーシャルが多いが、これは、仕込み過程のオートメーションかが進み、人が直接作業しなくても済むようになったからとのこと。後は、「黒」の持つイメージの良さから
「黒麹」ブームがあるらしい。
 ③焼酎ブーム→焼酎の品質向上から
 ・米麹製造技術向上から、漬け物臭さが無くなった。
 ・さつまいもの品種・品質の向上(コガネセンガンを用いる。)で、芋の傷み臭が無くなった。
 ・茶色瓶につめることで、焼酎が日光にさらされることでもたらされる油臭(日光臭)が無くなった。
 ・昭和53年に、焼酎が空気に触れてできる酸化臭・にごりのメカニズムが解明され、対策がなされるようになった。
 焼酎には、まだまだ可能性が秘められていることを実感した講座だった。

NOVAレッスン(天気のこと)

天気に関する表現を学習した。ネイティブが普段どのようなセンテンスで天気を表現しているのかとても勉強になった。
It's scorching outside.(外は非常に暑い スコーチングはhotより暑いという意味)
Today is a scorcher.(外は非常に暑い スコーチャー)
It's nice and warm.(cool)
It's a bit chilly.(肌寒い)
It's a beautiful calm day.(穏やかな日)
It's a beautiful clear day.(すがすがしい日)
The wind was howling outside(嵐のような風)
It's very gray outside.(冬のどんより曇っている天気)
It's very gray and miserable outside.(冬の暗くて雨が降っている様子)
There is a nice breeze.(心地よい風)
ネイティブは、このような表現で様々な天気を表している。このまま覚えて使うのがよい。

読んだ本(天皇誕生)

これも、「週間ブックレビュー」で紹介された本。「日本書紀」の記述について、初代神武~27代継体
までの大王(正式にはこのころ「天皇」という称号は使われていなかった。)についてその実在性を検討したもの。著者は、初代~26代武烈までの大王については、日本書紀に記述されているような大王は存在していないと結論づけている。ほぼ全体が当時の政権(天武天皇)に都合よく作られた歴史物語であると言っていい。それも、オリジナルではなく、中国の歴史書等からの引用した部分が多々見られる
のである。以前、隼人文化研究会で、古代隼人の存在について、「日本書紀に記されているような存在としての「隼人」族なるものは存在せず、それは、中国の文献から引用して作り上げた物語のキャラクターでしかない。」という報告があったが、この本でもそれと同じような結論が出されている。ただ、隼人族なるものが全く架空のものではなく、当時の南九州にモデルとなった部族集団があったということも言われているのと同じように、初代から26代の大王の中には、中国の文献に出てくるものもおり、日本書紀のモデルとなった王は、いたことは確かなようである。
 結局この「日本書紀」は、当時の政権が、日本という国(国名に「日本」という言葉を正式に使うことになったのは、701年大宝律令からである。また、前述したとおり、その「日本」を治める最高権力者を「天皇」と正式に呼び始めたのも、当時の「天武天皇」からである。)は、大唐帝国に匹敵するような国家であることを示すために作り上げた「歴史書」だったのである。

2009年2月11日水曜日

読んだ本(王政復古)

 毎土曜にBS2で放映されている「週刊ブックレビュー」で紹介されてすぐに読むことを決めた。
新書なので700~800円程度で手にはいると思いきや、すでに絶版状態であり、アマゾン中古価格がなんと4000円ほどであった。県立図書館で借りることにする。
 1853年ペリー来航から1867年王政復古の大号令までの流れを1867年を中心に詳述したものである。勉強になる事ばかりであったが、特に
 ①ペリー来航という事件の日本史における重要性(単なる鎖国→開国ということ以上に、ペリーが来なければ、明治維新も起こらなかったであろうというくらい大事件だったのだ。やはり「たった四杯で夜も寝られ」ないのは本当だったのだ。)
 ②大河ドラマ「篤姫」では、維新(革命)を達成するために2つの方法を対立的に描いていた。つまり、
大政奉還(平和的革命)と武力討幕である。薩摩藩もその2つの方法を巡って内部対立があり、小松は前者、大久保・西郷は後者の立場を取り、小松は最後まで武力衝突を避けるべく奔走したもののその願いかなわず、ついには鳥羽伏見の戦いに突入してしまうというストーリーになっていた。このドラマ以外でも小松(平和主義)、西郷・大久保(好戦)と対照的な認識を提示してあるものもあったらしい。しかし、著者は「それは誤解である。」という、小松・西郷・大久保は、最初から、大政奉還→武力討幕という戦略に基づいて協働していたのである。
 が印象深かった。 

2009年2月8日日曜日

お雛様


朝食の片付けが終わった11時半ぐらいから雛飾りを始める。飾る場所は玄関しかなく、結構なスペースを占拠することから、一段飾りにしようかとも考えたが、せっかくだからと、七段フルに飾ることにする。飾るのは、下の子たちが生まれた翌年だから、2005年2月以来4年ぶりである。飾り方もすっかり忘れており、説明書を見ながらなんとか仕上げた。終わったのは午後一時過ぎであった。片付けのことを考えるとため息が出るが、飾ってみるとやはりきれいである。

島津講談会

昨日午後6時半より、都城市都城ステーションホテルで、「島津講談会」が開かれる。鹿児島に因んだ歴史物の講談3本と、食事のセットという催し物。いわば「歴史講談ディナーショー」といえるイベント。
講談を生で聴くのは初めてであった。迫力がある。1本目は旭堂南陽(きょくどうなんよう)さんの、「西南戦争」。なんと彼は8カ国語を話せるという。

2本目は旭堂小二三(こふみ)さんの「篤姫」。篤姫の幼少時代のエピソードを元にした演目。

とりは太平洋さんの「北郷忠相(ほんごうただすけ)」。都城島津氏は、初め「北郷」を名乗っていた。忠相はその8代目で、「都城島津氏中興の祖」と言われている。本演目は、その忠相初陣のエピソードを元にした太平洋さんのオリジナル。今回のイベントを企画した都城市観光協会が、地元作家の小説を太平洋さんに送り、講談に仕上げてもらったとのこと。太平洋さんは、講談師以外に、競馬関係の仕事(番組をもっているらしい)をしている。JRAには、都城出身の日本一の調教師がいて(橋口さん)、その関係もあり、今回の都城でのイベントが実現したとのこと。橋口さんからは、花が贈られていた。
 どの講談もおもしろかったのだが、時間の関係で、これから盛り上がってくるという場面で、「後は、またお会いしたときに」と終わってしまったのが残念であった。
 講談は非常にマイナーな興業で、専用の演芸場ももてないので、今回のようなイベントを企画してもらわないと、仕事が無いようである。練習場所を確保することの難しさや練習時のエピソードなど、この後の懇親会で聞かせてもらったが、笑えそうで笑えないものだった。講談界には、「つぎり」という言葉があるらしい。「つ」の着く数字「1つ~9つ」を超える数、10以上という意味。つまり、お客さんが10人を
超える状況を驚きを持って表現する言葉とのこと。それだけ、普段はお客が少ないのである。
 ちなみに「講談社」という出版社があるが、この会社は、設立当初「講談」の内容を専門に出版していたことから、その名になったという。


講談後の懇親会

 講談の後は懇親会。地鶏の刺身と椎茸の寒天寄せ。江戸時代末期、調所などの提案で、都城に寒天工場が造られたことに因んだメニュー。
メインの「島津鍋」直径1mの大鍋を横から見た図。ふたが持ち上がっているのは、まだ具が煮えていないため。ふたが完全に下がったら、食べ頃。

「さあ、これからいただきます。」十字に仕切られてできる、4つの部分のうち、具が多く見える部分は、水炊き、具が少ない部分は、しゃぶしゃぶを楽しむ。1鍋で約10人前

しゃぶしゃぶ用の「きなこ豚」都城特産である。すべて、非常に美味であった。
 懇親会の中で、昨年11月に行われた「島津発祥祭り」実行委員会の方々といろいろ情報交換できた。講談師の太平洋さんは、地元の小学校を回って無料の講談会を開いているという。今年11月に開催予定の第2回島津発祥祭りには、再び太平洋さんたち講談師を招いての講演を開催するとのこと。
そのとき時間があれば、鹿児島の小学校でも子ども向けの演目構成の講談会を開いてくださるかも知れないとのこと。もし実現できれば、すばらしいことである。11月が楽しみである。