2008年11月2日日曜日

隼人文化研究会

黎明館3F会議室にて午後2時より参加。報告者2名は、どちらも大学院生。
 前段は、鹿児島大学の大学院生脇田さんの報告。テーマは、「家司(けいし)の活動について」
家司とは、皇族、高級貴族の家政を司る職員(しきいん)のこと。今で言えば秘書のようなものか。現代の政治家にも公設秘書(公費でまかなわれるもの)と私設秘書(個人で雇うもの)の2種類があるように、家司にも公設の者と私設の者がいたようだ。報告は、平安時代の藤原実資(さねすけ)を中心とした貴族に関わる資料から、家司の活動を明らかにしようとしたものである。

 後段は、神戸市立大学大学院の原口氏の報告。テーマは、「『記・紀』隼人関係記事の再検討」
古事記・日本書紀に記されている隼人関係の記事について、その史実を検討したものである。
 原口氏は、「隼人とは、天皇の権威を高めるため、国家の威儀を整えるため、日本型中華思想に基づき、中国の夷思想を参照しながら政治的に創出された疑似民族集団であると考えられる。」と結論づける。つまり、南九州にいた人々は、いわゆる「隼人」ではなかったということである。日本書紀は天武天皇の勅命により作られたものである。目的は、氏の結論にある通りである。そのために架空の”隼人”族なるものが創設される。隼人族は、非常に強い。その強い隼人族をも支配下におさめた、天皇家こそ、日本の統治者としてふさわしいというロジックである。氏の報告によれば、日本書紀は、当時手に入った中国の歴史書などを参考にして、もっと言えば真似して作られたものである。氏の資料を見ると、書紀が参考にした中国の「類書」と書紀の記述がとても似ている。時には、丸写しのような部分も多々見られるのである。よって、少なくとも天武天皇以前の大和朝廷と「隼人」と言われる人々との記述は歴史的事実ではなく、全くの創作といってもよい。ただし、だからといって、当時大和朝廷と南九州の人々との交流が全くなかったわけではない。最近の考古学的発見は中央政権と南九州の人々とのつながりが非常に強かったことを示している。(4・5世紀)大崎町の神領古墳から出土した亀型石棺や
武人埴輪などはそのよい例である。

0 件のコメント: