2008年10月25日土曜日

文章講座

 毎月第4土曜日午前10時から12時まで、鹿屋市立図書館にて開かれる「文章講座」に参加。
講師は館長の立石さん。参加に際して、講座日1週間前までにテーマに沿ったエッセイを提出する。今回のテーマは「私の好きな本、作家」
参加者は、約10名。6月の第1回は、20名近く参加があったのだが、回を追うごとに参加者が減少する。これは、どのような会にでもいえることである。それだけに、今回まで残っているメンバーは、みな熱心である。中には90歳を過ぎた方や、著名な作家を知っている方もいらっしゃる。
 今回の講座開始早々、講師の口から「今回のできはとてもよかったですよ。」というのもこれまで残ってきたメンバーの本気さ故であろう。
 最初に、参加者各自の課題エッセイについて講師からコメントをいただく。最初に紹介されたのが私のものであった。(後ほどエッセイ全文を載せる)
 次に、文章上達のための基本練習をする。今回は「オノマトペ」を使った文章作り。参考として宮沢賢治の文章を読んだ。その後、自分で短い文章を書いてみる。三島由紀夫は「文章が下品になる」と言って、オノマトペが嫌っていたらしい。三島は鴎外を尊敬していたようで、 「鴎外は、オノマトペなど使ったことがない。」と言っていたようであるが、それは、間違いのようだ。
 講座の中で勉強になったトリビアを思いつくまま記す。
 ①お椀・・木製 お碗・・陶器製
 ②千切り(繊切り)・・線切りは間違い。
 ③オノマトペ・・擬声語はカタカナ 擬態語はひらがなで表記するように指導していると言うと、
   そんな決まりはないとのこと。 
  我々の指導していることで一般社会では通用しないことが結構あるものだ。

       私のエッセイ 「マルクスその可能性の中心」(柄谷行人)
 大学入学と同時に選んだ、ある教育系のサークル。そこでは、学生が小学生を対象とした「子供会」を運営していた。「地域に根ざした自主的・民主的子供会」作りを究極的目標に掲げる活動が、将来教師になろうとしていた私にとってとても魅力的だった。実際のサークル活動は、「実践」と呼ばれる子供会運営と、その「理論」学習とで成り立っていた。民青に所属する先輩から授かったその理論は、「マカレンコ」という人物のものだった。マカレンコはソビエト集団主義教育の指導的人物である。マカレンコを通じて、マルクス主義思想の洗礼をも受けた。
 こうして、「理論」学習と「実践」に明け暮れる日々が始まった。もちろん、「実践」は、「理論」通り進むはずがなかった。当時は、その原因を自分の力不足、つまり、理論理解の浅薄さまたは、実践力の脆弱さからくるものだと考えていた。理論そのものへの疑いは少しも持っていなかった。
 その後の社会主義体制崩壊によって、徐々にマカレンコ理論、並びにその土台であるマルクス主義への疑いを持つようになった。そして、ついに、「マルクス主義は、現実に対応する理論たり得ない」と確信させる出来事も起こる。マルクスを特集するテレビ番組が放送されたのだ。マルクス主義はそのとき古典となった。
 そんなときある本の前で足を止めた。「マルクスその可能性の中心」という題名を見て、「今さら『マルクス』の『可能性』も無いだろう」という第一印象だったが、著者名に引っかかった。「珍しい名前だな。『からたにいくひと』だろうか」本を手にし、名前を確かめる。この日、柄谷行人(からたにこうじん)の名と、裏表紙にある、「マルクス主義の終焉において、われわれは初めてマルクスを読みうる時代に入った」という紹介文に「かっこよさ」を感じ、この本を読まずにはいられなくなった。その内容はまさに、「逆転の発想」、いやむしろ「発送の逆転」に満ちていた。特にその「価値形態論」の部分には圧倒された。「使用価値が異なるものに『共通する価値』を見いだした結果
人類が生み出したものが『貨幣』なのではなく、『貨幣』がそのような『共通する価値』があるかのごとく思わせている」のであり、それは、あたかも全く「違う」「個人」が、神の元において初めて、「同じ」「人間」として存在しているがごとくである。柄谷によれば、このようなイデアとしての価値、意味、本質がアプリオリに存在することを前提に考えること自体、「形而上学」的として批判される。彼はそれをマルクスの著作から読み取ってみせる。この読みに従えば、マルクス「主義」は、マルクスの「思想」とは「全く逆」のものとなる。「なるほど、この読みは『マルクス主義の終焉』した今だからこそ可能なものだ」
題名の意味をそのとき初めて理解した。
 この柄谷「体験」によって、読書そのものの楽しみを知った。それまで考えてみたことのないことを考え、やったことのない方法で思考できた。それは見知らぬ土地を旅しているかのようであった。
 柄谷作品は、私の世界観にも少なからず影響を与え続けている。柄谷は、「この世には『本来あるべき価値』が存在し、それは人類が『共通して』持っているものである。よって我々は、その価値を共有すべく努力すれば、必ず分かり合えるものだ」という考えを否定する。「他者の他者性」の自覚である。私とあなたとの間には、底なしの溝が存在する。といったイメージを想起させるこの考えは、一見絶望的であるが、私には一条の光であった。こちらがどれだけ正しいと考えることでも、「分からないやつには分からない」のだ。そう考えた瞬間、心が解放された気がした。分かってもらえないのは、こちら間違っているからでも、相手がだめなのでもない。そもそも誰もが皆「正しい」と考える「共通の価値」など、幻想でしかないのだから。
 元来「冷めている」ため、「熱く」語ることが苦手な私の「後ろめたさ」をこの作品は少し軽減してくれた。「現代消費社会の中で、その日その日を漫然と浮遊しながら生きていくものいいのだ」柄谷はこう語りかけているようだ。ニヒリスティックな笑いを浮かべつつ。
(講師評・・柄谷行人は、古今東西の多くの本を読んでいる気鋭の評論家です。私はあまり好きではないタイプですが、中上健次と仲がよかったので(柄谷が)一時期読んだことがありました。)

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