毎月第2土曜日照国神社で開かれる「照国講演会」
今年は、「照国公」こと、島津斉彬没後150年ということで
斉彬公にちなんだ講演会になっている。
今回のテーマは、「将軍継嗣問題と斉彬公」。
ここでいう将軍継嗣問題とは、篤姫の夫家定の次期将軍を
誰にするかということで、幕府を2分した争いになった問題をいう
斉彬は、老中阿部正弘、水戸藩水戸斉昭とともに、一橋慶喜を推す
対する紀州派は、井伊直弼を筆頭に紀伊藩徳川慶福(よしとみ)擁立を目論む
この問題に斉彬がどのような経緯をたどって深く関わっていくのか
というのが講演会の内容である。
講師は、安田山彦氏
肩書きは、「日本近世・近代史研究家」とある。
日通退社後、独自に研究している方である。
さて、内容であるが、
あまり予備知識のない私にとっては、
少々難しかった。
よって、部分的に理解できたところを思いつくままに記すことにする。
①斉彬は、その人柄・人脈をもって、当時の諸侯の中で中心的人物であった。
②水戸斉昭と斉彬は、当時の日本の状況を危機的なものと認識している点で共通した問題意識を持っていた。(大塩平八郎の乱などの内憂、アヘン戦争などの外患)
③老中阿部正弘と斉昭・斉彬は、協調してこの難局を乗り切ろうとした。幕政改革を実施しようとした。
④そのような動きに対抗してきたのが、井伊直弼を筆頭とする紀州派であった。
⑤井伊は、幕府以外の外様大名に幕府運営の主導権を奪われるのをおそれた。阿部への個人的恨みもあったようだ。
⑥将軍継嗣問題は、このような阿部・斉昭・斉彬派と、紀州派とのいわゆる「政争の具」であった。
⑦結果は、阿部の死、井伊の大老就任後紀伊派の勝利となる。
⑧ちなみに、大河ドラマでは、篤姫の入輿が将軍継嗣工作の一環として行われたように描かれているが、これは、間違いである。篤姫と家定の婚礼は、将軍家からの申し出があったからであり、斉彬は、それに従っただけである。もちろん、入輿後、篤姫に「次期将軍を慶喜にするように家定に働きかける」要請があったのは、事実である。しかし、当時の大奥は、大半が紀州派であり、なかなかそのような働きかけがしにくかったようである。
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